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私を変えたこの1冊(フォーサイス「第四の核」)

2005/03

たった一冊の小説が、世界を変える。
私が、フレデリック・フォーサイスの『第四の核』と出会ったとき、小説のそんな魔力と怖さを知った。

『ジャッカルの日』でデビューしたフォーサイスは、その後『オデッサ・ファイル』『戦争の犬たち』と立て続けに超一級の謀略小説を発表。徹底的かつ緻密な取材によって構築された事実の中に、いかにもあり得そうな嘘を絶妙なバランスで織り込んでいく。その結果、まさかと思うような事件が、彼の圧倒的な世界観の中で、十分あり得る危機へと変貌していく様は、まさに「圧巻!」そのものだ。

『第四の核」は、フォーサイスの代表作ではない。しかし、彼が自らが誇る筆力を武器に、世界を変えようと挑んだ怖い小説なのだ。
舞台は、一九八七年の英国。当時の英国は、鉄の女、マーガレット・サッチャー政権の時代。この時代にソ連が、英国で共産革命を起こすことを計画。尤も、いきなりボルシェビキに蜂起させようというのではない。保守党のライバルである労働党に、ソ連が支援する活動家を忍びこませる。そして、総選挙で彼らに堂々と勝利させ、政権を奪取しようというのだ。
そのためにソ連が仕組んだのは、反核運動を刺激し、総選挙の期間中に英国内の米軍基地で核を爆発させる計画(実際は、ソ連のエージェントが、スーツケースサイズの核爆弾を、何回にも分けて英国内に持ち込み組み立てるのだが)。それによって、選挙で反核を強く訴えていた労働党に、浮動票を取り込ませようというのだ。
一見破天荒な設定なのだが、そこはフォーサイス、その当時の労働党の状況、世界の潮流だった核軍縮問題、保守党の揺らぎなどを背景に、物語を紡いでいく。
そして、何よりこの小説が衝撃的なのは、書かれた年が、一九八四年だったということだ。つまり、小説で設定した時代より三年も前なのだ。
現実世界では、保守党は前年の総選挙の地滑り的勝利で浮かれており、その一方で、労働党では、極左勢力が密かに力を持ちつつあった。
フォーサイスは、それを見て、ことと次第によっては、次の選挙で労働党が保守党を破り、親ソ政府が英国に誕生するのではという危惧を抱いたようだ。
そこで彼は、小説という世界で、警鐘を鳴らした。だが、この作品のインパクトの凄さ(しかも、政党から党首まで実名!)を考えれば、それは警鐘ではなく、明らかな政治的プロパガンダに近かった。実際、この作品は社会的な影響を与え、英国では八七年、保守党が圧勝して、サッチャー政権は盤石となる。
当時大学で政治学を学んでいた私は、この小説を読んだ時、「こんなの、ありか?」と驚いたと同時に、「やられた!」という悔しさを抱いた。

話は、少し脱線してしまうのだが、当時大学の三年生だった私は、「政権交代論~自民党政権打倒のシナリオ」というテーマに取り組んでいた。
当時の自民党政権は盤石で、「政権交代とは、自民党の派閥内で行われるもの」だと思われていた。社会党が、自民党に迫ることはあったが、誰も政権交代なんぞ起きるとは思っていなかった。だが実は、既にその当時から自民党は第一党ではなかったのだ。第一党は、「投票にいかない人」党。既に、投票率が都市部では五〇%を大きく下回り、多くの人が政治に興味を失っていた。
そこで私は、逆にそういう浮動票層が「投票したい」と思うような政党が誕生すれば、自民党は倒せるかも知れないというシミュレーションを展開した。
その最大のポイントは、まず、小説や映画などエンターテインメントの世界で、多くの人に政治に関心を持ってもらい、今の政治では、自分たちに未来はないという危機感を抱かせることだった。そして彼らのその危機感を背景に、各世代のオピニオンリーダーたちが選挙に立てば、逆転も可能という、まさに「破天荒」なものだった。
当時の担当教授には、「発想はユニークだが、裏付けに乏しく、説得力に欠ける」と酷評されたのだが、それを、フォーサイスはやってのけてしまった。
ただ惜しむらくは、小説としては、いつものような深謀遠慮が見られず、偶然に頼りすぎ、物語にかなり無理があったことだ。ラストに用意された、彼お得意のサプライズエンディングは、さすがだったが、それでも、小説として素直に楽しめない生臭さがぬぐえなかった。
とはいえ私には、間違いなく衝撃的な小説だった。「一冊の小説で、社会は変わる」。既に大学時代から小説家を志していた私は、自分もいつかそんな小説を書いてみたいと思った。
そしてこの作品がきっかけで、多くの人が見過ごしてしまうこと、「これはおかしいんじゃないか」と思うようなことを、小説を通じて問うてみたい。そう強く思うようになった。

緻密な取材と事実の積み重ねに、圧倒的な物語と魅力的な登場人物たちのドラマがあれば、読者に、そんな想いを届けられるのではないか。
そんな小説が書けるのは、いつの日か。もしかして、一生夢で終わるかも知れない。だが、追いかけ続けるに足る夢じゃないか。私はそう思っている。

〈「小説トリッパー」(朝日新聞社)2005年春季号 掲載〉

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